隣人の情
私たち一家は、長屋式の家に二十年に以上も住んでいた。一部屋だけ、それも北向きなので、一年中日はあたらない。去年転職して、ようやく住まいはいくらかよくなった。アパートに住めるようになったのである。それでも引っ越しの日、なんだか寂しい気持ちにさせられた。「故国離れがたし」といったものではない、良き隣人と別れるのがつらかったからだ。
長屋だから、六家族がいっしょに一つの小さな台所を使う。食事どきは、六つのカマドが一斉に煙を吐く。その日見聞きしたことを話したり、料理の腕を見せ合ったり、心弾む一時だ。珍しい野菜を買ってくれば、みんなに食べてもらおうと、それぞれのカマドの上に一束ずつ置いてあることがある。始めは誰からのものかたずねたが、のち、事情がのみこめたので、聞くことはしない。うまそうな野菜を買えば、わが家もむろん分けてあげる。みんな面倒見がいいから、いつもうまい物にたくさんありつけるのだ。「主食品店で三号米売ってるから、はやく行って並ばないと」「副食品店に太刀魚が入ったよ」「大商店に豚のがらがあるから、急いで買ったら」――わが家の食卓が格別にぎわうのは、発達したこの“情報網”のおかげである。
ある年の夏のこと、これほど身にしみてうれしかったことはない。わたしたち一家は承徳に遊んだ。これは“お家の大事”、いつものように帰ってくる日にちを隣近所に知らせておいた。夜汽車を下りると、喉は渇き、クタクタに疲れていた。街でなにか食べよう、と思って、何軒か食堂に入ってはみたが、どこも気が進まない。やむなく家に戻ってつくることにした。階段を上がりながら、子どもが言った。「甘いおかゆが鍋いっぱいあれば、ペロリとたいらげちゃうんだけどな」
「うまいこと考えるな。家についたら、父さんがまっ先に台所でつくってあげるさ」
もう夜も遅い。隣人は明かりを消して眠っている。共同炊事場のドアをそっと開ける。なべのふたを取って、目を凝った。緑豆がゆが鍋いっぱいに入っているのだ。ちょっとすすってみた。甘味がきいている。熱くもなく、冷たくもない、ちょうどいい。わが家の洗面器を見ると、冷たい水に大きなスイカが冷やしてある。
子どもが言う、
「まるで童話の世界みたいだ、欲しい物が出てくるなんて」
わたしはもちろんわかっていた。今晩帰るのを知っていたわたしが慕う隣人が、わざわざ我が家のために用意してくれたのだ。スイカを食べ、甘いおかゆをすすっているうち、心身の疲れはどこかに吹っ飛んでしまった。そう、かれらのような良き隣人を、忘れることができるだろうか。
長屋からアパートへと変わったのだから、西郊外の新居へ引っ越したのは、確かに進歩だ。それでも、住まいの条件が良くなったとはいえ、失った物がなにかあるような気がしてならない。あれこれ考えてみる。わたしは昔の良き隣人が懐かしいのだ。
邻里情
我们家住了二十多年的筒子房,只有一间,又是向阴面,终年不见阳光。直到去年调动工作,住室略有改善,住上了单元房。然而,临搬家时,却也有一种眷恋之情。这倒不是由于“故土难离”,而是舍不得几家好邻居。
因为住筒子房,六户人家挤在一家小屋里做厨房,每当做饭时,六个锅灶一起冒烟,邻居们相互叙说着当天的见闻,交流着做菜的艺术,别有一番情趣在心头;有时候,谁家买了一种新鲜菜,就分给大家尝尝,在各家炉灶上都放上一束。开初,我还打听是谁送的菜,后来,知根知底啦,也就不再问。当然,我家买了好菜,也总是“投桃报李”。由于互相关照,我们常常可以买到更多的好东西,比如:“粮店卖三号大米,快去排队。”“副食店又来好带鱼啦。”“大商店有排骨,快去买。”靠着消息灵通,我们的餐桌上就显得格外丰盛了。
使我最感动的是一年夏天,我们全家去承德旅游。像这样的大事,我们照例把回来的日期告知邻居。那天,我们乘夜车回京。下车后又渴又累,想在街上吃点什么吧,走了几家饭馆,偏偏都不中意。只好决定回家自己做饭。上楼的时候,孩子说:“现在要是有一锅甜粥,我能一气把它吃光。”我说:“别想美事啦。回到家,我先去厨房做吃的就是了。”这时候夜已深。邻居们全都熄灯睡觉了,我轻轻地打开了公用厨房的门,揭开锅盖一看,惊呆啦:满满一锅绿豆粥,尝一尝,甜丝丝的,不凉不热正好喝。再看看我家脸盆里,却用冷水冰着一个大西瓜!我的孩子说:“真像童话里那样,想什么,有什么。”我心里自然有数。这是可敬的邻居们知道我们今晚要回来,特地给我们准备的。我们吃着西瓜,喝着甜粥,身心的疲劳一扫而光。
你想,这样的好邻居,我们怎能不留恋!
搬到西郊新居后,由住筒子房改为一家一户的单元房,这无疑是个进步。然而,尽管居住条件改善了,我总觉得若有所失,想来想去,原来是思念过去的好邻居。