蝉の声

蝉の声

私は子供の頃から中国の東北で育ったので蝉の声を聞いたことはなかった。のちに北京に出て働き、郊外の農家の敷地(庭)に住んでいた。

夏が来ると柿の木の濃い木蔭が庭をすべて覆う。こまかく砕いた金粉を篩にかけたような陽光の下、誰か一声命令したのか、紅い屋根と緑の木々のあいだで無数の透明な蝉の羽が突然陽気に動き出す。琴瑟(キンシツ)のような蝉の声が光と影のなかに流れ込み、まるで陽光の透明な手が万物の合奏を演奏しているようだ……。雨の後の蝉の声はさらに美しくて捨ておけない。

杜甫の詩に曰く:晨鐘雲外湿(朝の鐘声が雲の外側に湿っぽく響いている)。

雨の後の蝉の声も、緑の潤いをゆっくりと散る白雲のあいだに揉み込んで酷暑の中に一片の清涼をもたらし、白居易の『井底引銀瓶』(井底銀瓶を引く)のなかのすがすがしい詩句を思い起こさせる。

嬋娟両鬢秋蝉翼、宛轉雙蛾遠山色(美しい両鬢はセミのはねのようで、きれいな両の眉は遠山の色のようだ)。

その頃、私には解らなかった、どうして中国詩人のおおくが蝉の声を悲しく痛切に描くのか。たとえば洛賓王の『獄中詠蝉』(獄中に蝉を詠ず)のように、

西陸蝉声唱、南冠客思沈 不堪玄鬢影 来対白頭吟

太陽が西陸を行くといわれる秋が来て蝉が唄い始めると、異国で捕われの身となっている私の心に旅の憂いが侵み込んで来る。高潔だといわれる黒い美しい翅を持った蝉がやって来て、自分の潔白を訴えて歌う私の白頭吟の歌を聞いてくれるのを見ると、とてもたまらない気持ちだ。

李商隠の『韓弘舎人即事』では 鳥応悲蜀帝、蝉是怨斉王(鳥は蜀帝を悲しんでいると思い、蝉は斉王を怨んでいるだろう)

李商隠の詩は韓弘と柳氏との悲歓離合の故事を詠っている。ついでに「斉后化蝉」の典故を引用する。晋の崔豹の『問答釈意』のなかに書かれていることによると:

牛享問うて曰く「蝉の名、斉女なる者は何ぞや?」

答えて曰く「斉王后怒して死す。屍変りて蝉と為り、庭樹に登り、彗涙して鳴く。王悔恨す。故に世名して曰く斉女なり」

まさに蝉の声を、恨みを抱いて死んだ女の哀しい声にたとえているのだから、その蝉の声も悲しいものだと見なすことができる。

東京にきてからは経緯度の違いか何かはわからないが蝉の声を聞くのは非常に少ない。しかし蝉がいないわけではない。

一度、私の運命をお祈りしに行ったか、あるいはただ何かのついでだったかはわからないが、ある日の夕方明治神宮に行った(いやきっと観光ではない、日本に来てからずっとそんな暇はなかったのだから)。お参りをしたあとだったか、私は長い林の道を歩いていた。突然、露にしみこまれたようなかすれた蝉の声が幾層にもなった厚い葉の中から重々しく漏れ出て来た。そして風に吹かれてとぎれとぎれに鳴き続けた。私の心はさっと震え、洛賓王の詩句がわけも無く口から出てきた。

露重くして飛ぶも進み難く、風多くして響き沈み易し。

これはつまり日本の詩人がよく言う”ヒグラシ”蝉で、日本人も中国人と同じく蝉を詠う時は常に悲しみを帯びる。『万葉集』のなかに三首、蝉を詠った詩がある。巻第十に 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも

夕方のかすかな光の中に来て鳴いているひぐらし、このひぐらしはこんなにも毎日毎日聞いても決して飽きることのない声だ

ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く

ひぐらしは今こそ我が時とばかり鳴いているけれども、片思い故にか弱い女であるこの私は、一日中泣き濡れている。

とある。巻第十五では 石走る滝もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ

岩に激する滝の轟くばかりに鳴きしきる蝉、その蝉の声を聞くと都が思い出される

がある。日本の詩人が蝉を詠うとき、また非常に面白いことに出会うことが出来る。それはつまり、日本語の中で、“ひぐらし蝉”と夕方を意味する“日暮”の発音が同じなのである!

听蝉

我从小生长在中国东北,没有听过蝉声,后来到北京工作,住在郊区一个农家的院子里。

一到夏天,柿子树浓浓的树荫笼罩着整个院子,筛动着点点细碎的金子一样的阳光,不知是谁一声令下,红瓦绿树间无数透明的蝉翼突然欢快地鼓动,一阵琴瑟般的蝉鸣流进光和影,像是阳光透明的手拨响了万物的合弦……。雨后的蝉鸣更是美不胜收。

杜甫诗云“晨钟云外湿”。

雨后的蝉鸣也是把一阵绿色的湿润,揉进散漫的白云之间,让酷暑中流进一片清凉,这也会令人想起白居易《井底引银瓶》中的清新诗句:“婵娟两鬓秋蝉翼,宛转双蛾远山色。”

那时我不明白,为什么有许多中国诗人都把蝉鸣写得那悲切。

如骆宾王《狱中咏蝉》:“西陆蝉声唱,南冠客思沉。不堪玄鬓影,来对白头吟。”

李商隐《韩弘舍人即事》:“鸟应悲蜀帝,蝉是怨齐王。”

李商隐在诗咏韩弘和妓女柳氏悲欢离合的故事时巧用了“齐后化蝉”的典故。

在晋人崔豹的《问答释意》中写道:

牛享问曰:“蝉名齐女者何也?”

答曰:“齐王后忿而死,尸变为蝉,登庭树,彗唳而鸣,王悔恨,故世名曰齐女也。”

将蝉鸣喻为含恨而死的女子的哀鸣,可见其声也悲。

到了东京后,不知是经纬度不对还是什么别的原因,很少听到蝉鸣,但并不是没有蝉。

不知道是为了祈祷我多舛的命运还是为了顺路,我在一个傍晚来到了明治神宫(反正不是观光,因为从到了日本就没有了这种悠闲),也许是参拜完神,我走在长长的林荫路上,突然,一阵被露水渗透般的嘶哑蝉声在层层的厚叶中沉重地泛起,又被风扯得断断续续,凄切而哀婉。

我的心猛地一颤,骆宾王的诗句不由地脱口而出:“露重飞难进,风多响易沉。”

这也就是日本诗人们常说的“暮蝉”、“晚蝉”。日本人和中国人一样,咏蝉常含悲,在《万叶集》中,有三首咏蝉之诗。卷十中有“夕影斜映,晚蝉低鸣。日日聆听,不弃不厌。”“晚蝉哀鸣,时泣时停。悲恋在心,泣之不停。”卷十中有“岩飞瀑布,阵阵轰鸣。蝉鸣不停,故国乡情。”日本诗人在咏蝉时,还可以遇到一个非常有意思的事情,那就是在日语中,“晚蝉”和“日暮”的发音是一样的。