歴史は塗りつぶせるか
60年前、都内に住む国民学校5年生が日記にこう書いた。「本日は連合軍進駐の日とて、米機すこぶる低空にていういうと飛び行く。くやしいが如何(いかん)とも出来ぬ。ただ勉強するのみ」
60年前,住在东京都内国民学校的一名5年级小学生,在日记里这样写到“今天是联合国军进驻的日子,美军的飞机在非常低的天空嗡嗡盘旋。无论怎样懊恼都无济于事了,现在(我们)能做的就是学习。
やがて占領軍の命令で、教科書の軍国主義的な個所を墨で塗らされ、絶対と信じていた天皇中心の日本史が否定された。少年は思い知らされた、戦争の結果次第で歴史は書き換えられるのだと。
不久接到占领军的命令,日本教科书中原本关于军国主义的地方全部被修改,对天皇绝对信仰的日本史也遭到全盘否定。少年们体会到历史是会因为战争的结果而被改写的。
後にアメリカ歴史学会の会長を日本人として初めて務めた入江昭ハーバード大教授(71)である。このほど出した回想録「歴史を学ぶということ」(講談社現代新書)で、教科書の墨塗りが自分の歴史家としての出発点だったとふりかえっている。
后来作为日本人首次担任美国历史学会会长的是入江昭哈佛大教授(71岁)。他在最近出版的回忆录《学习历史》(讲谈社现代新书)中,以自己作为历史学家的出发点回顾了重写教科书这件事情。
それは、歴史は勝者が書くのだという単純な論ではない。「国家権力や政治的思惑によって歴史が書き換えられうるからこそ、歴史家はあくまでも自由な意思と努力で史実を追求しなければならない」という決意だ。
这并不能简单地归结为历史是由胜利者撰写的。入江大教授认为「他们都是根据国家权力和政治的考虑而对历史进行修改的。不用说历史学家也必须按照自由的意思和努力去追求历史的真实」。
入江さんの仕事の特色は、一国だけの狭い視点ではなく、国家を超える経済や文化の動きを視野に入れて、国際社会の全体像を描き出すことだ。「学問はナショナリズムから自由にならねばならない」という思いに支えられている。
入江教授工作的特色,就是并非局限于一个国家狭隘的视野,而是把超越国家经济、文化的动向耐入其视野,对国际社会做出一个全体的描绘。这是由「学问必须从民族主义出发自由地发展」这个观点所支撑的。
「歴史とは現在と過去との対話だ」(英国の史家E?H?カー)と言われるが、現在の問題意識で歴史はいかようにでも解釈できるということでは困る。教科書に墨を塗っても、歴史は塗りつぶせない。肝要なのは、塗りつぶした過去との冷静な対話ではないか。軍国少年から出発した入江さんの歩みがそれを示している。
英国的史学家E?H?カー认为“历史是现在和过去的对话”,但现在的问题意识中历史却有多种解释,这一点又令他为之困惑。教科书可以重新撰写,但历史却是无法篡改的。重要的是,是否能够与被篡改的历史进行冷静地对话呢?从军国主要时代的少年到现在(成为教授的)入江先生,其经历正说明了这一切。