桜を知る
私は去年3月末に日本に着いたが、空気はまだやや冷たかった。何人かの日本の友人に会うと、最初の言葉は決まって「いい時期に来ましたね」であった。この「時期」は言うまでもなく、桜の季節である。
今、日本では「花」といえば、説明を加えない限り、必ずと言っていいほど桜のことをいう。しかし、昔からそうだったわけではない。西山松之助先生の研究によれば、古くは「花」といえば梅の花だったが、後になって次第に桜に定着してきたそうだ。詩を詠みながらお酒を飲み、歌や踊りを楽しむということは、宮廷貴族の「風流」な花の宴を物語っていたが、これは大陸への憧れから生まれた模倣である。ただ、「花」のイメージを桜に集中させるのは、日本人の独特な美的感覚だと言わざるを得ない。
外国人の心の中でも、桜は日本を代表している。中国でも日本で制作された宣伝用の絵を常に目にすることができる。絵の上部には、日本のシンボルとされる富士山がうっすらと雪化粧をしてそびえたち、その山麓(さんろく)をみめ麗しい新幹線が疾走する。手前の一角をみると、斜めに何本かの桜が満開して、薄いピンクと澄み切った青空とがよく映えている。たとえ、富士山を日本人の心の中の永遠の古里といえば、新幹線は日本経済の飛躍的発展を表しており、桜は日本人の自然に対する思い、美的風情のシンボルだと言えよう。
中国で花といえば、人々は豪華絢爛たる牡丹(ぼたん)を思い浮かべるだろう。また、優雅で奥ゆかしい蘭の花、雪の中で鮮やかに咲く梅の花、すらりと美しい蓮の花……地域の違い、経歴の違いによって、思い浮かべるものも多様である。日本と比べ、多くを包容している気がする。この点において、斎藤正二氏の見解はかなり面白い。同氏は、日本の国の花―桜は社会神話であり、民族主義、国家主義の産物であるという。これは、「花と言えば桜、人と言えば武士」という言葉からもその面影を見ることができる。
もちろん、日本人の桜に対する愛着を政治に帰結させることはできない。中国人と日本人の花を観賞する最も大きな違いは、中国人の対象拡散に対する日本人の集中だと言うより、中国人は開花」を観賞するのに対し、日本人は「落花」を観賞することだと言った方がいいかもしれない。中国人は、花が満開した時の鮮やかで美しい様子が好きであり、日本人は、花が散り去る時の淡々とした哀傷を観賞するようである。
桜の特徴は姿が消えやすいことで、普通1週間ももたず、しかも風や雨に会えば、一瞬にして散ってしまうのである。京都の有名な「哲学の道」に沿って散策すると、春日よりの日差しの切れ間から、ひとしきりひとしきりとそよ風が頬を撫でてゆく。それにつれて、桜の花びらが舞い落ちる。地面に落ち、谷川に落ちる。そして、さらさらと流れ去る川はこれらの精霊を運んでゆっくりと、しかも戸惑うことなく、遠くに流れ去る。確かに、ある種の生命のはかなさ、盛者必衰の感を覚えてしまう。
桜にはある種の魔力があるかもしれない。それでもって、遠い昔と今を結びつけ、慎重というものを奔放へと導き、無常の感嘆を現世の大事なものに変えているのかもしれない。桜を知り尽くせば、日本人を知り尽くすことになるのではないかと思われてならない。
读解樱花
我是去年三月底到的日本,空气中还略带着些寒意。几位日本朋友见到我们的第一句话便是“来得正是时候”,这个“时候”,不用说,是指赏樱时节了。
今天在日本说到“花”,如果不加以说明,几乎一定指的是樱花,然而并非自古如此。根据西山松之助先生的研究,“花”在上古,最初是梅花,后来才逐渐定格于樱。吟诗饮酒,丝竹歌舞,体现着宫廷贵族“风流”的花宴,可以说是源于对大陆憧憬之下的模仿。然而“花”的意象凝聚于樱之中,则不得不说是出于日本人独特的审美意识了。
在外国人心中,樱花也代表着日本。记得在国内常常可以看到日本制作的一幅宣传画:上面是被认为最具代表性的日本 ——青峻的富士山顶白雪皑皑,头部呈流线形的新干线高速列车由山麓呼啸而过,近处一角,是斜斜的几枝绽放的樱花,淡雅的粉红与澄净的蓝天相互映衬。如果说富士山是日本人心目中永远的故乡,新干线是日本经济腾飞的标志,那么樱花则是其自然感受,审美情趣的象征。
在中国,提到花,人们也许会联想起雍容华贵的牡丹,清幽素雅的兰花,傲雪怒放的梅花,婷婷玉立的荷花……,因地域不同,经历不同,浮现出的意象不一而足。相对日本而言,显现出一种多元包容的姿态。在这一点上斋藤正二的意见颇为有趣,他认为日本的国花樱花,是一种社会神话,是民族主义、国家主义的产物。这可以在“花推樱花,人数武士”的口号中看到一些影子。
当然,日本人对樱花喜爱不能归结于政治。中国人与日本人的赏花的最大的不同,也许并不在于中国人的对象扩散而日本人的集中,而在于中国人赏“花开”,日本人则是赏“花落”。中国人喜爱鲜花盛放时的娇艳美丽,而日本人则欣赏落花纷飞时那份淡淡的哀伤。
樱花的特点便是易逝,一般只能持续不到一周,而一遇风雨便会满树凋零。沿着京都著名的“哲学之道”漫步,春日斜阳之中,阵阵微风拂过,白色的樱花花瓣便飞舞而下,轻盈地散在地上,落入溪中,而淙淙的流水就轻轻载着这些精灵缓缓地,却是坚决地远去了。的确有一种生命易逝,盛者必衰的感触。
樱花也许是有一种魔力,联系着远古与今天,引导着拘谨走向奔放,将无常的感叹变为现世的珍惜。也许读懂了樱花,便会读懂日本人吧。