外では友だちが頼り

外では友だちが頼り

中国には「家では両親が頼り、外では友達が頼り」という言い方がある。これは、まったくそのとおりで、一生涯のうち、家にいる時間は限られており、人生の大部分は友達に頼らざるを得ない。海外にいて、周りに親族もいない、言葉も文化も違う、考え方も違う、社会制度も違う、となるとなおさらだ。人間はしかり、仕事もまたしかりである。

これほど感無量なのは、5月1日がちょっと特別な日であるからだ。この日は、人民日報インターネット版の日本サイトが設立されて2年半にあたり、日本語版の創刊から1年半になる、ちょっとした記念日なのだ。各分野の支持と協力がなければ、日本サイトと日本語版の今日の発展は想像もつかなかったことは言うまでもない。その一つに、私達が多くの日本の友人に恵まれたことにある。

海外で仕事を展開する際、常に様々な問題にぶつかるが、まずは、中国と異なる各種規定や制度が一つの難関となる。そこで、経済コンサルタントである私の友人は、ずっと無償でわれわれを助けてくれ、いろいろなアイデアを出したり、私達のためにあちこち奔走したりしてくれた。彼いわく:「私は中国の東北部で十何才まで育っており、そこは私の古里である。日本が過去にやったことに、私は自分の力の及ぶ範囲で償って行きたい。微々たるものに過ぎないかもしれないが、私の気持ちである」 その素朴で誠実な言葉に胸を打たれる。

似たようなことは数え切れないほどある。私達が日本語版の翻訳レベルの低迷に悩んでいる時、私の学生の1人が自分の中国留学時代の友達を紹介してくれ、これによって、われわれは初めて日本語を母国語とする校正者を得たと同時に、編集部で日本人パートを採用する先例を切ったのだ。また、私たちが日本語ができる人材を集められなくて困っているとき、私の東京大学時代の恩師がたまたま北京外国語大学の日本学研究センターの客員教授として赴任しており、そのつながりでわれわれは学生の就職を担当する先生と知り合い、日本語の優秀な人材を常に確保することができるようになった。ある友人は、日本語版の創刊以来、ずっと訳文に対する批評をインターネットを通じて寄せてくださり、私どもの影の先生になっている。さらに、日本サイトがオフィスの改装工事のため、居場所がなくなった時も、1人の友達がうまい具合に、東京近郊にある自分の建物を提供してくれたので、われわれは支障なく仕事を続けることができたのである。

穴吹先生は「学問の海に深まる友情」(4月1日更新)に対する返信の中で、人民日報と朝日新聞が交換しているコラム「中日飛鴻」を取り上げて、そのメーリングリストのタイトルが「Friendship=友情」となっていることを指摘していた。先生がご存知のとおり、両社のインターネット上の友情は、私たち日本サイトを取材した朝日新聞記者の縁結びで始まり、双方のリーダーシップとメンバーが精一杯育てて来た賜物(たまもの)なのである。ちなみに、最初のその取材は、東京大学の若い1人の先生の紹介で始まった。

中国には、「一滴の水の恩を涌き出る泉をもって報いる」という言い伝えがある。日本サイトと日本語版はゼロからスタートしたが、今日では十数人のメンバーを抱え、日本人の正社員もおり、画面もある程度充実し、改善された。とりわけ、毎日訪れる1万人に及ぶ「インターネット・フレンド」は、私たちの友人の輪を大きく広げ、私たちに苦労の甲斐を教え、発展への自信を与えている。「大きな徳は、感謝の言葉を待つまでもない」と中国では言われているが、実にそのとおりで、感謝してもし切れないのだ。1000字あまりの短い文章では、われわれがこれまでに与えられた支持と協力の万分の一も書き尽くすことができない。彼らは、私たち一人ひとりに、また私たちの仕事に大きな手助けをしてくれただけでなく、中日友好のために尽力して、さらに両国の民間交流における重要な構成部分でもある。われわれはその全てをいちいち数えるすべもないが、いつまでも忘れず、これからも、ひたすら仕事に励んで行くだろう。

私はこの短いお手紙をもって感謝の意を表すと共に、日本の慣用語お借りして結びに代えさせて頂きたい‐‐今後とも、どうぞよろしくお願い申しあげます!

在外靠朋友

中国有句俗话:在家靠父母,出门靠朋友。这话一点不假。人的一生中,在家的时间毕竟有限,这就决定了人生的大部分,要靠朋友才能成事。身居国外,举目无亲,语言文化不同,思维方式不同,社会制度不同,就更是这样了。人且如此,事业亦然。

发此感慨,是因为今天有一点特殊的意义:五月一日,是人民日报网络版日本站建站两年半、日文版创刊一年半的一个小小纪念日。可以说,没有各个方面的支持和帮助,日本站和日文版能有今天的发展,是不可想象的。其中之一,是我们受惠于很多日本朋友。

在国外开展工作,经常遇到一些问题,那些不同于中国的各种规章制度首先就是一道难关。我的一位做经济咨询师的朋友,一直无偿地帮助我们,出谋划策,跑前跑后。他说,“我在中国东北长到十几岁,那是我的故乡。对日本过去的行为,我想在自己力所能及的范围内做点补偿。虽然微不足道,但是我的心意。”朴素真诚,令人动容。

类似的事例,不胜枚举。在我们为日文版翻译水平难以提高而苦恼的时候,我的一个学生,介绍了她在中国留学时的朋友,于是我们开始有了第一个母语日文校对,也开了编辑部采用日本临时工作人员的先河。在我们为招收日文人才没有进展而发愁的时候,我的东大的导师恰巧在北京外语大学日本研究中心短期任教,通过他的穿针引线,我们接洽到了负责学生就职工作的老师,开始有了日文优秀人才的稳定来源。一位朋友,从日文版创刊开始,坚持不懈地对译文进行评点,通过因特网,她成了我们不见面的老师。在日本站因为办公地点改建而一时无着时,又是一位朋友,及时腾出了他在东京近郊的房屋,使我们得以不间断工作。

穴吹先生在《谊深学海》的回信中提到,人民日报和朝日新闻为“中日飞鸿”专栏进行工作交流的邮件列表,名字就是“友情”。正如先生所知,两个报社的网上友情,开始于一位采访过日本站的朝日新闻记者的牵线搭桥,以及双方领导和工作人员的精心培育,而最初那次采访,则起源于东大的一位年轻老师的介绍。

滴水之恩,当以涌泉相报。日本站和日文版从零起步,今天有了十几个人,并开始有了日本正式职员,版面上也得到一定程度的充实和改观。特别是,每天来访的这支上万人的“网友”队伍,大大壮大了我们的朋友圈子,让我们感到辛苦的价值,增添了发展的信心。大德不言谢,实际上谢也是谢不过来的。一篇千字的小文,书不尽我们所得到的支持和帮助之万一。他们所做的,不仅仅使我们个人、我们的工作受益匪浅,更是为中日友好的大业尽心尽力,是两国民间交流事业的一个重要组成部分。对这一切,我们无法一一尽数,但始终不会忘怀,无法一一报答,唯有努力工作而已。

我愿意用这封短信,在聊表谢意的同时,借一句日本俗话来结尾:今后还请,多多关照!